環境リスク規制の政治学的比較 その15
化審法2009年改正
関西学院大学 法学部 准教授
早川 有紀(はやかわ ゆき)様
【その15】化審法2009年改正
前回は化審法の制定から2003年改正について、1970年代~80年代は、「ハザード(有害性)」に対する規制が整備され、1990〜2000年代は「環境リスク」に対する規制が進んだと教えていただきました。
また、1990年~2000年代は国際的な合意に対応する形で化学物質管理に関する政策が進められてきたのでしたよね。
そうです。今回は化審法の2009年改正について説明します。国際的な合意に対応して制定されたEUのREACHが2006年に制定されていますので、日本での議論もそれを意識したものとなっています。
■2009年化審法改正の背景
2003年改正後の主な課題としては、以下の2つがありました。
①既存化学物質に対する対応
②国際的な規制への対応
①既存化学物質に対する対応の経緯
1973年に化審法が制定された際に、既存化学物質は事前審査の対象とされず、付帯決議において、今後国が安全点検を行うものとされていました。
既存化学物質のうち難分解性かつ高蓄積性であるものについては、人や動物(高次捕食動物)への毒性の有無が確認されるまでの間も法的に管理するため、第一種監視化学物質(現在は「監視化学物質」)に指定する制度が、2003年の改正により導入されました。
参考:第三章 第一種特定化学物質に関する規制等(環境省)
2005年には、既存化学物質に関して情報収集することを目的として、厚生労働省、経済産業省、環境省の三省合同の「官民連携既存化学物質安全性情報収集・発信プログラム」(通称:Japanチャレンジプログラム)が開始されました。
Japanチャレンジプログラムは、既存化学物質のうち優先して情報収集すべき「優先情報収集対象物質」を選定し、国と産業界が連携してそれらに関する安全性情報を収集してそれを国民に発信するものです。当時、第一種監視化学物質に指定された物質が少なかった上に、リスク評価を終えた既存化学物質は2008年時点で約2,000物質程度もありましたので、何らかの形で管理を進める必要がありました。
②国際的な規制への対応
WSSD目標に対応する必要と、POPs条約(残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約)において許容される例外的使用に関する規定について対応する必要が生じました。
WSSD目標
2002年に南アフリカのヨハネスブルグで開催された持続可能な開発に関する世界首脳会議(WSSD:World Summit on Sustainable Development)において採択されたもので、実施計画書において、「予防的取り組み方法に留意しつつ、透明性のある科学的根拠に基づくリスク評価手順と科学的根拠に基づくリスク管理手順を用いて、化学物質が人の健康と環境にもたらす著しい悪影響を最小化する方法で使用、生産されることを2020年までに達成することを目指す」(WSSD2020年目標)とされました。
(出典)WSSD、SAICM、SDGs について(厚生労働省ホームページ)
これらの課題を背景としながら、2003年改正化審法附則第6条に定められた制定5年後の見直し規定が一つの目安となり、2003年の改正に引き続き経済産業省が中心となって次の改正の準備が進められることとなりました。
具体的にどのように進められたのですか?
改正に向けた準備として、2006年5月から12月まで、9回にわたって経済産業省の産業構造審議会の化学・バイオ部会において、化学物質政策基本問題小委員会が開かれました。ここでは化学物質政策のあるべき全体像や基本的な考え方について議論が行われました。
どういうことが議論されたのですか?
特に活発に議論が行われたのは、以下の点です。
- 化学物質の安全性情報をいかに収集・把握し、伝達し活用するか
- 化学物質管理政策と廃棄物管理政策の関連
- 規制と自主管理の在り方
- 従来のハザードに重点を置いた管理をどのようにリスクに重点を置いた管理に発展させるか
産業界を代表する委員は、仮にREACH規則のように企業がリスク評価を行う制度になった場合に企業の体力が削がれることに懸念を示していました。企業にとって、リスク評価やそれに伴うデータ収集にあたっての実験設備や専門的人材を揃える負担が大きいためです。
そんなに負担は大きいのですか?
化審法に基づく申請に必要な新規化学物質の試験費用は一物質あたり3,000万円程度かかるので、申請者(企業)にとってはかなりの負担となります。
一方市民セクター代表からは、事業者のリスク評価の実施義務付けと国の第3者機関による評価や、予防原則の適用、高懸念リスクに着目したリスク評価の実施、複合暴露・複合影響を勘案した評価・管理体制の構築、市民参加の保証などに留意する必要があるとの意見が提出されました。
こうした議論を受けた報告書はパブリックコメントを経て「中間とりまとめ」として報告書が2006年12月にまとめられました。最終的にはリスク評価をめぐる国際的な動きを踏まえながらも、特定の国の制度を支持する表記は行わず、日本独自の合理的なリスク評価体制を構築するという方針が示され、その方法として、リスク評価すべき物質を優先的に取り上げて評価する手法があげられました。
日本独自の制度として、全数を対象とするのではなくリスク評価をする物質を絞るということですか?
そうです。
この委員会は法改正の準備という位置づけでしたので、この委員会で議論された内容や中間取りまとめは、2009年の改正の議論に引き継がれることとなりました。
準備段階が終わり、いよいよ法改正案が作成されるのですね
2008年1月に化審法を共同所管する厚生労働省、経済産業省、環境省の審議会の下に「化審法見直し合同委員会」が設置されました。
作業部会として、「化審法見直し合同ワーキンググループ」が設置され、2008年1月から10月までの間に合同委員会が3回、合同ワーキンググループが4回開催され、以下の論点について議論されました。
- リスク評価の在り方や役割分担
第2回合同ワーキンググループ(2008年3月)において、国がリスク評価を行ったほうが、信頼性が確保されるという考え方が提示されました。審議会委員である市民セクター代表は、この考え方におおむね賛成しました。環境省は、これまでの経緯や日本の規制文化にあった規制であるとして賛成の立場でした。 - 取扱事業者への化学物質の情報提供
業界団体代表(日本化学工業協会、化成品工業協会、電気電子4団体)から、実効性や費用対効果の問題、現在の自主的取り組み(PRTRなど)、企業秘密への配慮の要請、産業界によるサプライチェーン全体の情報管理は困難などといった指摘がなされました。 - リスク評価にかかるコスト
規制影響分析または規制影響評価(Regulatory Impact AssessmentまたはAnalysis :RIA)がリスク評価に用いられ、規制影響評価では、REACH規制のように全ての化学物質を事業者自らがリスク評価する「網羅型」の規制方法と、国がリスク評価する「スクリーニング型(優先評価型)」の規制方法について、費用と便益が比較検討されました。
その結果、
- 費用面:
- 網羅型はスクリーニング型に比べて多くのコストが必要となる
- 便益面:
- 人の健康への影響、動植物への影響、国民(消費者)の信頼感と安心感、技術革新・競争力への影響において大きな差は認められない
と判断され、スクリーニング型のほうが費用対効果面で妥当だと評価されました。
具体的に産業界に生じるコストとして、網羅型はスクリーニング型に比べて化学産業側に160億円、ユーザー産業(自動車、電子電機等)側に80億円多く費用が必要になると試算されました。行政側のコストは示されませんでしたが、網羅型はスクリーニング型に比べてリスク評価などに係る業務が増大することによるコストが増えることが予想され、日本ではそのような行政コストを負担することが困難とされました。
スクリーニング型に対するポジティブな評価は、効率的な規制方法を目指す経済産業省、コスト負担の回避と競争力保持を目指す産業界の選好と一致していました。また、スクリーニング型は国がリスク評価を行うため、信頼性の確保の観点を重視する市民セクター、国民の健康・安全や安心感を重視する環境省と厚生労働省の選好とも一致していました。この時の大きな問題とされたコスト面において、スクリーニング型の方が有利でしたので、利害関係者間の対立は生じませんでした。
こうして作成された「化審法見直し合同委員会報告書(案)」はパブリックコメントを経て、2008年12月に最終報告書が作成されました。
その中では「実効性や費用対効果の観点も考慮しつつ、収集する暴露関連情報およびハザード情報の範囲と種類を適切に設定することが重要となる。(中略)リスク評価は、国が責任をもって行い、そのための情報収集は、基本的に事業者が行うという体制が望ましい」として、実効性や費用対効果の観点も考慮した情報収集範囲の設定の重要性が指摘され、“リスク評価は国、情報収集は企業”が行う体制が望ましいとされました。
既存化学物質のリスク評価について、規制影響評価の通り、網羅型のリスク評価方法について「試験の実施などによってハザード情報を収集し詳細なリスク評価を行うことは迅速性・効率性の観点から合理的ではない」として、リスク評価の優先順位付けを行うとされました。
化学業界は、費用対効果の観点からも、運用面の実効性・柔軟性の観点からも、REACH規則より優れていると評価しました。また市民セクターは2020年のWSSD目標に間に合うように、リスク評価を2020年までに完了するという具体的な年次目標が明記されたことを評価しました。
■改正案の閣議決定
見直し合同委員会による最終報告書を基に作成された改正法案は、自民党内で経済産業部会において議論が行われましたが、改正内容が基本的に前回の改正内容を引き継ぐものだったため、自民党や自民党所属議員から特別な要求が出されることはなく、化審法改正法案は2009年2月に閣議決定されました。
■国会での審議
衆参両院の経済産業委員会、経済産業委員会環境委員会連合審査会によって審議が進められました。合同審議会において野党から、REACH規則の内容と比べた時の改正法案の不十分性が指摘されましたが、政府からは双方の目指すところは同じであり、国の実情に合わせた合理的な判断であると主張されました。
また、改正法案の内容は産業界への影響についても考慮したうえでの結論であり、日本の輸出先としてはEUよりアジアが重要であることが強調されました。与野党から中小企業に配慮する必要性が指摘されましたが、中小企業については既存化学物質の試験費用を国が負担することが示されました。
法案は両院の審議を経た後、野党の指摘などを組み込んだ付帯決議付きで2009年5月に可決、成立しました。
(出典)化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律の一部を改正する法律案概要(イメージ)(環境省、2009年)
【参考サイト】
化学物質審査規制法の見直しの状況について(環境省)
化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律【逐条解説】(経済産業省、厚生労働省、環境省)
ここまでお読みいただきありがとうございます。