地球温暖化をどう理解するか その7
〜ご経歴と日本の公害問題〜
公益財団法人 地球環境戦略研究機関(IGES)
理事長
浜中 裕徳(はまなか ひろのり)様
2015年11月~12月にパリで開催された気候変動枠組条約締約国会議(COP21)。この会議は、明確な長期目標の下で「待ったなし」の目標設定と温室効果ガスの削減実施が全ての国に求められることとなった歴史的な会議として注目されています。
今回のインタビューは、長年、日本の環境政策に携われてこられた IGESの理事長 浜中裕徳 様に「地球温暖化問題」について、お伺いしました。
【その8】ご経歴と公害問題
浜中様は厚生省や環境省でずっと環境問題に取り組まれて来られたとお伺いしました。先生のご経歴や、環境問題についてのお考えをお聞かせいただけないでしょうか。
私は、東京大学で都市工学を専攻しました。都市工学科というのは、東大で建築系の都市計画と、土木系の水処理、廃棄物などを専門にする衛生工学が一緒になってできた学科でした。
私は都市計画を専攻していましたので、建設省に入りたいと思い公務員試験を受けたのですが、学部卒業後すぐ世の中に出るのではなくもう少し勉強したいと思い大学院に進学しました。
ちょうどそのころ学園紛争が起きまして、成田空港建設反対運動などがあり、「いわゆる開発系の役所に入るのは、いいことなのか?」と疑問を感じたのです。
その様子を先生の一人が見て「厚生省には都市工学科の先輩もいて、公害対策の仕事をしているので、行ってみる気はないか」と言われました。厚生省には病院建築という職場があり、建築系の採用もしておりましたので、厚生省もありかなと考えて厚生省を希望しました。
ご存じかもしれませんが、国家公務員試験に合格した後にどこの省庁の面接を受けるかは制限されていません。私は都市計画の専攻でしたが、都市工学科では衛生工学も学んでいましたので、「君は土木職で採用してやろう」ということで厚生省に採用されました。
入省されてからは、どのようなお仕事をなされたのですか?
最初はいろいろなことをやりました。
例えば、四日市、川崎、大阪の西淀川などでのぜんそく患者が多数でた大気汚染の問題の対策。
大学時代に通学している途中、毎日遠くが見えないような東京の空を見て、ひどいな〜と思いましたが、当時はこんなものだと、危機感は感じていませんでした。
それから、水俣病の原因になった水銀汚染や富山のイタイイタイ病への対策。
イタイイタイ病の原因は、河川の上流にある鉱山の排水に含まれていたカドミウムという物質を、食事を通じて摂取し過ぎることです。普通はカドミウムを摂取すると腎臓障害に現れるのですが、当時の食生活で栄養が十分ではなかったせいもあったのか、富山では、骨折して痛くなるという特殊な症状になって表れました。
当時は、まだ日本全国に銅や鉛の鉱山がたくさんありましたので、その排水処理を何とかしないと、水俣病やイタイイタイ病のような病気が各所で起こるのではないか、それならば未然防止が必要だと、いろいろな調査を実施しました。
ちょうど1970年頃、戦後日本の経済社会の大転換期でした。
確か環境庁ができたのが1970年ころですね。
環境庁が発足したのは1971年です。それまでは戦後の経済復興、とにかく皆豊かになりたかったので、一生懸命頑張り、いけいけドンドンで突っ走りました。しかし、環境問題を十分に認識していませんでした。
意図して環境を汚してやろうとは思わなかったけれども、結果として、何かあちこちがおかしくなっていた事に気がついて、さあ今度は大転換しましょうという急激な変化が始まった頃でした。
そういう公害のひどい例を新聞やテレビで報道しますし、私も友人たちと水俣に行ったり、富士の田子の浦に行ったりしました。
富士の田子の浦ですか?
静岡県には製紙工場やパルプ工場が沢山あります。今は立派な対策がなされていますが、当時は排水処理への意識が強くなかったので、田子の浦に富士川の水が流れ込んで、そこがチョコレート色の帯の様になっていました。これでは漁師の人たちが怒るわけだと思いました。
それから、光化学スモッグ対策にも関わりました。
光化学スモッグは、私が厚生省に入った頃から発生していまして、環境庁ができた当時、私は大気汚染対策を担当する部署に配属されました。
その頃は毎年夏になると、小学生、中学生がバタバタ倒れるのです。何でこんなことが起こるのか東京都の公害研究所が大気のサンプルを取って分析したところ、どうもこれは光化学スモッグが原因だという事がわかりました。子どもたちが倒れるような事が実際に起きているので対策を早くしないと・・というような、そういう雰囲気でした。
公害問題の真っただ中にいらっしゃったんですね。
そうですね。学生の頃は役所に入って何かしようという将来像はなかったのですが、公害のひどい状況を目の当たりにして、徐々に、自分の専門性を身につけると同時に、対策を推進しなければならない、貢献しなければならないという様に意識が変わってきました。
温暖化問題に関わられたのは、いつ頃からですか。
1990年に環境庁に地球環境部という組織ができ、そこの企画課の課長になって温暖化問題に関わり始めました。新しくできた部はまさに地球環境問題、オゾン層保護や温暖化対策を中心とした部署でした。
それからはずっと地球環境問題、温暖化対策をメインにやってきましたので、もう26年近くかかわっている事になります。
厚生省に入省され日本の公害対策を実践される過程で、専門性を身につけながら対策推進への意識が高まった、というお話が印象的でした。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
次回は、最終回「地球温暖化問題と日本」についてお伺いします。